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【光を】鈴仙奮闘記22【掴み取れ!】
[990]鈴仙奮闘記 ◆85KeWZMVkQ :2015/01/25(日) 21:18:40 ID:??? >>989 すみません、一日出先で返信できませんでした。 埋めネタですが、是非やって頂いて構いません。 確かに>>989さんの仰るとおり、このスレでは地霊殿チームの能力値公開をやりたかったのですが、 長らく埋められて無かったですし、現行スレで公開をしても問題は無いので。 もし宜しければ、パク……リスペクトした本でも投下後に教えて下さればうれしいです。 文章ともども、今後の展開について、何か参考に出来るかもしれないので。
[991]988:2015/01/31(土) 22:34:10 ID:??? 埋めネタを投下したいと申した者です。 990さんや鈴仙奮闘記さんからのコメントを見て、 詰まらぬパクリ文で貴重な残り容量とTさんの登場機会を削ってしまう 事になる事に気づきました。悩みましたが、どうしても投稿せずにはいられなくなり 失礼ながら書き込ませていただきます。 紫と霊夢の考え方についてですが、前者は英雄史観、後者は種族史観というべきもの (後者については私の勝手な憶測です)とみております。 前者については鈴仙奮闘記さんの話の中で触れられているので省略し、後者については 「人と妖怪、神などは決定的に解消できない差異があり、その際により異変騒動は不可避である。 異変がおきれば一時的にお茶を濁して過ごすほかない」という考え方が霊夢にはあるのではないかと 愚考しております。
[992]988:2015/01/31(土) 22:41:24 ID:??? 社会の方向を決定する力として組織、集団の特質による影響が大きいという説には反対意見がある。 そのうち最も目立つのは英雄主義と種族主義である。 前者は、社会を決定する力が特定の個人、人物にあるという思想であり、後者は、種族間の関係にあるとする思想である。 英雄崇拝の時代はすでに過ぎた。社会の進行において個人は確かに一つの要素となる。 秦の始皇帝、アショカ王、カエサルの時代はいうまでもなく現代においても、やはり個人の影響はないとはいえない。 旧ソ連の骨格はなんといってもレーニン、スターリンの影響があり、 インドが今日のインドになるにはガンジーの人格が大きく関係している。 それゆえ第二次大戦後、戦争犯罪者を選んで処罰したのは当然のことである。 ともあれ個人の時代はおわった。 英雄主義のなかでもカーライル[イギリスの思想家、1795-1881]の語る英雄は 一時華やかだったナポレオン、ジンギスカン式の英雄ではないので、 今も聞くに値し、人の精神を呼び覚まし、真実で敬虔な態度で人生の戦線に立ち向かおうとする勇気を起こさしめる力がある。 けれども、それはやはり個人の面だけを強調した思想である。個人は自分独りで成り立つものではない。 考え、判断し、行動する主体が個人であることは言うまでもないが、その個人のうしろには常に全体が立っている。 良心は己れがつくったものではなく、生まれる前にすでに枠組みが決定されている。
[993]988:2015/01/31(土) 22:43:18 ID:??? 個人は全体の代表である。全体を離れた我は真の我ではあり得ないし、 みずからの内に命令する全体を発見した我こそ真の我である。それが真の自己発見である。 その全体は宗教的にいえば神であり、世俗的にいえば運命共同的な全体社会である。 今まで個人のうしろに立って支えてくれ、命令したのは個人が属する有機的集団である。 すべての個人は集団の表われである。ルターは宗教改革の中心人物であるが、 それはルターとしてではなくドイツ人ルターとしてである。 どんなにルターを尊敬する人でも、宗教改革をルター一人の行為と思う人はいないだろう。 宗教改革は宗教的にいえば聖霊の行ないであると同時に、現実的にいえば北ヨーロッパ民族の行為である。 ルターがイタリアに生まれなかったのは偶然ではなく必然である。 ルターはさておいて、全人類の救い主という声を聞くイエスさえ、ユダヤ民族の人である。 ユダヤでなければイエスは生まれてこない。ユダヤ民族を忘れてイエスを知ることはできないし、 ユダヤ民族を知らずしてキリスト教を知ることはできない。 集団的背景なくして人格はあり得ないということだ。 種族主義は英雄主義とは逆に、幻想郷の構成員を その社会生活における種族的対立・協調関係から説明しようとする思想である。 対立関係が社会変遷の理由にならないというのではない。ただそれだけが原因ではなく、主な原因でもない。 人生のあらゆる出来事を、利害関係の対立からくる力学関係論でもってすべて説明しようとするのは明らかに独断である。 そのような独断は、たった一人のソクラテスだけいても崩れてしまう。 ましてやソクラテス二千年前のギリシアだけにいたのではなく、一人ひとりの胸の中にいるからには…… 種族が対立すれば争うのは事実だが、もともと幻想郷に多種族が存在する原因は、 互いの利害の衝突からというよりは、外の世界では消滅するであろう異質的な分子を、 できるだけ生かして保護しようとするところから始まった。 争いではなく寛容である。
[994]988:2015/01/31(土) 22:45:00 ID:??? また種族には永続する自我意識がない。種族と集団は同じ程度というものではない。 種族間の際は単純な体質・行動パターンから生まれてくるものであるゆえ、その関係がたち切られるとその感情もすぐなくなるが、 集団意識は個人の性格形成にまで影響をおよぼすものであるため、容易になくなりはしない。 英雄主義や種族主義は一面の真理は語っている。しかし分析的な真理がほんとうの真理ではない。 富士山の峰ごと、谷間ごとを分析してみれば、他の山と変わらない石と木であろうが、 全体として立っている富士山はどの山にも比べられない抜きんでる金剛山である。 歴史上、英雄的活動がないのではなく、種族の作用がないのでもない。 それが全体を全体としてあらしめる真理ではないということだ。 それは幻想郷、ある意志を持った組織集団がする。それゆえ運命共同的というのである。 個人の活動であれ集団の活動であれ、それが歴史の上に残るときはどうしても集団の名で残る。集団が全体であるからである。 すべてのものは全体の祭壇にささげてこそ保存され得る。 モーセがいかにすぐれていようと彼の功績はユダヤ人の誇りとして残り、 ジャコバン党がいかに過激に振舞ったにせよ、その過ちはフランス国民の欠点として残る。 ゾロアスターの教えが彼の口から出たにせよ、それはペルシャ文化の核心であり、 ギリシャ哲学はアテネの貴族階級が生んだものであってもやはりギリシャ哲学である。
[995]988:2015/01/31(土) 22:46:32 ID:??? このようにのべると、非常に激しい集団主義のように思えるが、そうではない。集団主義時代は過ぎ去った。 しかし家族主義の時代が過ぎ去っても家の意味は依然として残り、 個人主義を捨てても個人の価値は依然として貴いように、 集団主義を捨てても集団の価値は知らなくてはならない。 歴史を担うのは個人でも、種族でもない、集団である。少なくとも今まではそうである。 幻想郷は森羅万象から成り立つ社会である。 否定する余地のない彼ら自身の、そして幻想郷の社会である。 幻想郷には吸血鬼の侵略もあったし、蓬莱人の干渉もあったし、仏教道教の混合もあったが、 だからといって幻想郷が吸血鬼、蓬莱人、仏・道教徒との分割所有ではない。 吸血鬼を、妖精を、妖怪を、亡霊を、蓬莱人を、八百万の神を、仏・道教徒を受け入たが、 それでも変わりなく幻想郷が幻想郷に生きる者の幻想郷であることは変わりなかった。 よかれあしかれ、責任はどうあれ、それとは関わりなく 中山・鈴仙による諸々への意識変化は幻想郷の社会の一部となってしまったことは、 幻想郷の皆が責任を負わねばならない。そのことを忘れてはならない。 イタリアのマッチニ[イタリアの革命家、政治家、民族統一運動家、1805-72]の言葉を一部借りる事で、 集団としての幻想郷についてのしめくくりとしよう。 「神はその意志の一行ずつを各集団の揺籃の上に書かれた」
[996]988:2015/01/31(土) 22:58:10 ID:??? 以上で拙文の書き込みを終了いたします。 元ネタとなった本は咸錫憲『苦難の韓国民衆史 意味から見た韓国歴史』の 63-67ページより参照いたしました。 中山・鈴仙2人が起こした変化は、突き詰めれば幻想郷の構成者の総意であり、意志ではないか、 世の中を変えていくのは「凡人」しかできない事ではないのかと考え、書き込ませていただきました。 咸さんの著書は激動の時代を生き抜き戦い抜いてきた人が書いている本であるだけに、 困難に対する勇気と気概を呼び起こし、そしてやや中二的ともいえる燃える文章が見られますので、 ぜひご一読をお勧めいたします。
[997]森崎名無しさん:2015/01/31(土) 23:23:30 ID:??? 乙 その調子で今度は新たな外伝を作り上げてくれ 楽しみに待ってるぞ!
[998]鈴仙奮闘記 ◆85KeWZMVkQ :2015/02/01(日) 00:09:55 ID:??? 988さん、読み応えのある&大変勉強になる埋めネタの投下乙&ありがとうございました! 勘違いさせてしまったのなら申し訳ありませんが、少なくとも私は、是非読ませて頂きたいと思っていました! ・霊夢や中山など一人の「英雄」の意志が、幻想郷の行く末を決めるという英雄史観、英雄崇拝というのは既に時代遅れ。 何故なら英雄個人の思想・人格とは、英雄を生んだ「集団」の背景によって成り立っているから。 ・また、人間や妖怪、妖精などの「種族」及び「種族」同士の関係が、幻想郷の行く末を決定するという考えも正しくない。 「集団」と比べ、「種族」が与える影響は弱く、容易に無くなりやすいものだからだ。 ・今後の幻想郷の行く末を決めるのは、紫・霊夢や中山・鈴仙のような「英雄」でも、人間や妖怪という個々の「種族」でも無い。 様々な個人(「英雄」)や「種族」が内包された、幻想郷という「集団」そのものである。 ということで、 ・紫は霊夢という「英雄」一人によって、幻想郷という「集団」の行く末は決定できると考えている。 ・霊夢は自分という「英雄」一人では、幻想郷という「集団」の行く末は決定できない(異変解決で、お茶を濁す程度しかできない) と考えている。 という風に考察されているのですね。(もし違っていたらごめんなさい(汗)) 拙作における幻想郷観について、大変参考になりそうです。 元ネタの本ともども、今後の展開等に役立てていきたいと思います。本当にありがとうございました!
[999]988:2015/02/01(日) 00:50:53 ID:??? 997さん、鈴仙奮闘記さん、わがままによって書き込んだ文章をお読みいただき、まことにありがとうございます。 鈴仙奮闘記さんの要約はきちんと要点をとらえており、煩雑な文章が分かりやすくなる大変ありがたいものです。 いつかこの本の感想を一言だけでも良いので書き込んでくだされば幸いです。 幻想郷の「意志」とはどんなものになるか、これからの展開を楽しみにしております。 どうか途中でいなくなったりしないよう、心から祈っております。 最後に、金で縫い取ったような文章を私が勝手に使ったしまった事について、天国の咸錫憲様、 埋めネタでの貴重な出番を奪う事になってしまった、綿月豊姫様、 何卒笑ってご容赦していただきたく思います。大変失礼いたしました。
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0ch BBS 2007-01-24