※人気投票開催中※
01/17(日)00:00-01/30(土)23:59
第二回鈴仙奮闘記キャラ人気投票
※新板できました※
ダイス創作物語板
ブログ
現行スレ
投票
最新20
板
1-
前
次
新
レス
【全国の】キャプテンEDIT40【壁】
[845]森崎名無しさん:2012/10/07(日) 01:38:47 ID:??? くっここはJOKER引きたかったぜ
[846]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:39:11 ID:??? ☆国岡隆平☆ 実力よりも舌鋒と謀略で出場機会を狙い続けた彼は、とうとう選手としては大成しなかった。 同期と後輩とに空けられた実力差を埋めきれず、高校でもベンチを温める日々が続いた。 頂点を狙うために努力と権謀を両立させた某選手に比べると、明らかに自身の向上を怠っており、お粗末な感が否めない結果となる。 結局、大学進学と同時にサッカーをやめ、地元の製造所に入社。可もなく不可も無く日々を送った。 ☆水守哲也☆ キャプテンである大前、監督の飯地から非凡な才能の持ち主とされたDF、水守。その信頼から三年時には彼がキャプテンに就任する。 だが、その実力は非凡ではあるも『傑出した』とまで言えるレベルには到達しなかった。 世代別代表には何度か呼ばれるものの定位置を確保するまでは行かず、A代表では予選での海外組温存時に数度選出されるに留まる。 ただクラブでは息の長い活躍を続け、なんと39歳まで大過無く現役生活を送った。 ☆宇津木千鳥☆ 雪村の忠実な後輩、宇津木。一定水準の素質とクレバーさを併せ持った彼だったが、不幸にも選手として活動した時期は短かった。 プロ入り後のある日、居酒屋で性質の悪い酔漢に絡まれていた女性を助けるも、それがスポーツ紙に暴力事件としてスッパ抜かれ不祥事に。 その責任を取る形で、関係者や学生時代の同窓から惜しまれつつも、26歳という若さで引退する。 以後、裏社会にひっそりと足を踏み入れたらしく光の心と闇の身分が両方備わり最強に見える男が多分不良界で伝説になっている(リアル話)
[847]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:41:25 ID:??? ☆浅村伸治☆ 清栄学園から実力不足を理由に追放され、その後鳴紋中でレギュラーを掴んだ努力の人、浅村。 テクニックと身体能力の差から、代表招集には縁が無かったが、国内のクラブでは運動量のある貴重な潰し屋として活躍した。 ただリーグ設立初期のアマチュアリスムの抜けないジャッジには苦労し、本人の性格に反してカードコレクターのヒールとして名を馳せる。 その後、サッカーファンが見る目を養うにつれ、浅村のスタイルは再評価されることとなる。 ☆園村睦月☆ 小学校時代は全国出場を経験するも、中学では周囲のレベルアップに取り残された感のあった彼だが、二年秋で大きく開花。 翌年には鳴紋中の正GKとして全国の大舞台に立ち、高校では安定感のある第二キーパーとして重宝されるレベルにはなった。 国内プロリーグ設立後はプロデビューするも、若さから長らくベンチを温め、正GKの地位を掴んだのは33歳の時だったと言う。 ☆墨田仙一☆ 平素の冷静沈着な態度と裏腹に、プレイ時には情熱的になる爆弾の様な男。しかし、どうにも不発弾のような結果しか残せなかった。 FWとして劣っているわけでも無いが秀でても無く、全国以上の舞台では無難な活躍に終始した。 後のプロリーグ開設後も参加はせず、地元企業でサラリーマンに。ただ休日の草サッカーでは生き生きとプレイしていたと言う。 ☆若尾四郎☆ 鳴紋中サッカー部でもとりわけ実力不足とされた若尾だったが、入部後の努力によって成長。二年秋にはレギュラーを掴む。 ただ、やはり才能の限界を超えるには至らず、三年時の全国大会では佐野や沢田、山森らに翻弄される場面が目立った。 高校ではそれに更に新田が加わった。結局、プロ入りは果たせずに就職。 結婚後、息子に自分が果たせなかったFWでのプレイの願いを託したが、しつこく勧め過ぎてサッカー嫌いにしてしまったと言う。
[848]森崎名無しさん:2012/10/07(日) 01:42:15 ID:??? おい宇津木www
[849]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:42:50 ID:??? ☆大前達也☆ 一年時から全国大会で活躍し、兄以上の逸材かもしれないと期待を掛けられた達也。兄の卒業後も中学・高校と6年連続で全国を経験する。 ただスピードに優れる分、キック力はそれなりであり、ゴールよりもアシストが多いタイプのFWに成長した。 代表では上の世代の層が厚く出場機会を得るのに苦労し、本格的な活躍は彼らの代表引退後である選手生活晩年となる。 クラブではスピードと当たりの強さを兼ね備えたウイングとして評価され、主にエールディヴィジを舞台に活躍した。 ☆金成優☆ チームでの立場を失いピッチから姿を消した彼は、家族に無理を行って居づらい清栄の高等部に進まず、他県の高校に進学する。 その後、思うところあってか大学で教職課程を学び、道徳の教師として某県の小学校に赴任。サッカー部の顧問を務めた。 皮肉屋な性格は相変わらずだったが、素直ではないが児童に親身な先生として保護者らから慕われたと言う。 子どもたちには常々「嘘はいけない」「ずるをして一時得をしたとしても、最終的には損をするものだ」と言い聞かせているらしい。 ☆東風谷早苗☆ 守矢神社の風祝にして赤口中のマネージャー兼選手、東風谷早苗。 彼女はフランス国際JY大会が終わり季節が秋に移る頃、ふらりと姿を消した。 未成年者の突如の失踪にも関わらず、周囲は不思議なほど騒ぎ立てず、まるで最初から彼女がいなかったかのようであったという。 ただ、数人のチームメイトがしばらくの間寂しそうにしていたという。 ☆八雲紫☆ 第16回全国中学生サッカー大会決勝戦の観客席で、何人かの人間が場にそぐわない不思議な衣装を着た金髪の女性を目撃。 大会後、JY大会に向けての合宿に赴く前の大前が、似たような人物と会っていたという話もあるが、詳細は不明。 当の大前も、謎の女性に関する記憶を一切持っていなかったので、そのことは誰かの作り話として忘れ去られた。
[850]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:44:09 ID:??? ☆飯地やす子☆ 地方の強豪どまりであった鳴紋中を、全国有数のチームに育て上げ、名伯楽として大いに名を売った飯地監督。 一部にはユース代表チームのコーチに推す声もあったが、破天荒な言動から協会との折り合いが悪く、話が出る度にお流れに。 しばらく一線の現場からは姿を消すも、数年後に突如としてギリシアのクラブチームの監督に就任しチャンピオンズカップに挑戦。 対戦した元教え子の度肝を抜いた。 私生活では大分年下のある男性と結婚。性格の方は相変わらずで、彼には相当苦労を掛けているようだ……。 ☆菱野景☆ 育成特化型の監督の陰で、日常の雑事から作戦立案まで取り仕切ったマネージャー。 中学卒業後、海外に進んだ大前との一時の離別を味わうが彼女に悲しみに浸る暇は無かった。高校の監督がてんで頼りにならなかったのだ。 結局、菱野は周囲に陰の監督として扱われ、高校生活を日々の業務に忙殺されることとなる。 高校卒業後、地元企業の事務員として二年間働き、大前と念願のゴールイン。WY終了直後のことである。 ……その後の彼女については、多くは語るまい。愛する者と、健やかなる時も病める時も、変わらず共に過ごした、とだけ言っておこう。
[851]森崎名無しさん:2012/10/07(日) 01:46:03 ID:??? やっぱり相手はこの人か
[852]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:46:53 ID:??? ☆大前良☆ 鳴紋中のキャプテン、エースストライカーとして、延長引き分けとはいえ初の全国優勝に導いた大前。 フランス国際Jrユース大会では、僅差で森崎に敗れ代表キャプテンとなる事は叶わなかった。 一選手としては日向と競うように全試合でゴールを挙げ、同チームのライバルや西ドイツのシュナイダーを降しMVPに。 これには森崎が、初戦イタリア戦でいきなりオーバーラップに失敗し先制されるなどしたことが影響した、と言われている。 その後、スペインのデポルティボ・ラ・コルーニャのユースチームからスカウトを受け加入。 三年後、同クラブのトップチームでプロデビューする。 代表では派閥争いからの空中分解を恐れた見上監督から懇々と説得を受け、その末に森崎の政権維持に積極的に協力することを決める。 森崎の不在時を除き、日の丸のユニフォームと共にキャプテンマークを巻くことは無かった。 A代表では94年にW杯初挑戦。Wユース優勝などの実績を持つ選手が多かったことからチームの前評判は高かった。 しかし、見上監督の急病で登板した、賀茂監督代行による無茶なトレーニングでチームは崩壊寸前に。 だが、若さとそれに不似合いな苦境の経験を兼ね備えた日本代表は、決勝でファンベルグ率いるオランダを何とか退け初の優勝をものにする。 内外両面の敵を抱えたまま、苦心の末に栄冠を掴んだ日本代表。 国民は熱狂しマスコミは連日喝采を送ったが、その陰で大前の身体には見えない、そして癒えることのない傷跡が残されていた。 元からハードなトレーニングに慣れ親しんでいた大前は、賀茂の組んだメニューを他の選手より多くこなしてしまい、 それによって膝や筋肉に大きな爆弾を抱えてしまったのだ。
[853]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:48:15 ID:??? ……98年。 クラブと代表。ことあるごとにアジアと欧州を往復する生活は、サッカー選手にとって大きな負担である。 それが影響してか、大前はよりにもよって大会前の親善試合で膝を故障。転んだ際に筋肉系の故障も併発してしまう。 大前は日本のW杯連覇という偉業達成の瞬間を、病室の上からテレビを通して見届けることとなった。 キャプテン森崎有三がトロフィーを掲げ、10番・大空翼が『東洋のペレ』と人々に称えられる様を、涙を飲んで見送った。 鳴紋中時代のチームメイトが、自分の不在からか喜び切れずにいる姿が映るや、耐えきれずにテレビの電源を切ってしまったと言う。 またこの怪我は、プロデビュー以来の古巣である、デポルティボ・ラ・コルーニャでの去就にも影響した。 治療が長期に渡ること、後遺症が避けられないことが懸念され、クラブでもフロントから復帰後の働きを疑問視されてしまったのだ。 大前はかつてチャンピオンズカップ出場にも貢献した功労者だった。 だが、チームは後に『スーペル・デポル』とも言われる黄金期、それを築き上げる選手が育ち、または新加入していた。 長期間の所属によりサラリーが嵩み、故障までしてしまった三十路間近の男に注がれる視線は、冷ややかなものだった。 結局彼は、自ら志願しての移籍という形でチームを去ることとなる。 日韓共催、母国を舞台に三連覇達成が掛かった02年大会でも、黄金世代の高年齢化が懸念される代表には、三十の大台を越え、 しかも慢性的な怪我を抱えた彼の居場所は無かった。 国内のマスコミは四年前の英雄と次世代の若武者の報道に終始する。 大会の結末は、91年のワールドユース大会以来、日本への雪辱を狙っていたブラジルの優勝。 三連覇、ならず。その衝撃もあってか、国民のほとんどは、しばらく前に古巣からも逐われた、八年も昔の男の事は忘れ去っていた。
[854]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:49:40 ID:??? ――だが、彼は諦めなかった。 亀の歩みの様なリハビリ生活にも耐え、大幅に下がった評価、待遇、環境の違う新チームでの再出発を受け入れ、牙を研ぎ直していた。 大前の移籍先はフランスリーグ二部。サッカー不毛の街と言われたリモージュの、歴史の浅いクラブである。 既に全盛期を過ぎ、古傷の影響で出場も不規則になりがちであったが、三部への出戻りは時間の問題と言われたクラブの救世主として活躍。 01−02シーズンには、ワールドカップ前の熱気に隠れて、際どい三位でのリーグ・アン(一部)昇格に貢献する。 この頃から次第に体調面が持ち直し、02−03シーズンは前季よりコンスタントに出場。チームは予想を覆して中位に進出する。 03−04シーズンには更に躍進。大前はナポレオン、J・J・オチャドらと熾烈な得点王争いを繰り広げるまでに復調。 最終的には僅差の三位に甘んじ得点王を逃すも、出場時間に対する得点率では断トツであった。 そしてチームは四位でシーズンを終え、来季のUEFAカップ出場権を掴む。 迎えた04−05シーズン。リーグでは中位の下という位置であったが、チームと大前はUEFAカップの舞台で爆発する。 グループリーグを二位で通過すると、決勝トーナメントでは(ザルな守備を帳消しにする)圧倒的な得点力で勝ち進んで行く。 その様は他のチームから「攻撃力だけならチャンピオンズリーグ決勝トーナメント級」「奇跡のリモージュ」などと評された。 決勝では皇帝シュナイダーの引退後、精彩を欠いた感のあるバイエルン・ミュンヘンを一蹴。見事優勝を飾った。 この大会、大前は実に25ゴールという、脅威的な成績で得点王に輝き、またゴール数大会新記録の栄誉を掴んだ。 ……かつて世界から忘れられた男は、鮮烈極まりない形で逆襲を果たしたのだ。
[855]キャプテンEDIT ◆EUWFb5QXUg :2012/10/07(日) 01:51:28 ID:??? 翌、05−06シーズン。 昨季の大暴れから来る燃え尽きや、同世代のライバルの大方が引退したこと。何より古傷と加齢から来る限界を悟った大前は、自ら退団。 現役生活終の場として、母国日本へ帰った。 傷んだ脚では、これ以上欧州の一線級で戦うことは不可能と判断したのであった。 以後は試合や練習を通して、後進の選手に欧州から持ち帰った経験を伝えることに専心したという。 調子のいいマスコミは「06年のW杯で代表復帰か?」と掌を返したが、本人は笑って首を横に振るだけだった。 余談だが、同時期にイングランドから帰国した長池が大前とコンビを組み、一部のオールドファンを沸かせる。 また国内で現役だった渡会、水守、園村らは「この年になって大前(さん)が敵のFWか」と苦笑いしたという。 その後、07年のシーズン終了後に引退し、波乱万丈の選手生活に幕を降した。 36歳。途中、大怪我で戦列を離れたにしては長く現役だった。 引退後はとあるクラブのユースチームでコーチを務めながら、監督の勉強中。 今後について聞かれた際に、「いつか鳴紋市のクラブがプロ化したら、指揮を取りたい」と語っている。 そしてその前に、長い現役生活を支えてくれた妻と子どもたちへの埋め合わせも、とも。 ☆ ☆ おわり ☆ ☆
前
次
写
名前
E-mail
0ch BBS 2007-01-24